私達は、いつの日からか銀行に口座を開き、なにのリスクも考えずに無意識のまま預金をしている。では、一体、銀行とはどういう存在なのか、また、社会的にどのような意義を持っているべきなのかを考えたことがないままに虎の子の財産を預けている。辞書で、「銀行」を調べると、「預金の受け入れ、資金の貸付、手形の割引、為替の取引などを主たる業務とする金融機関」とあった。経済活動の潤滑油となるお金を円滑に回すために存在するのが銀行だといえる。だが、今日、上場している大手銀行の業務内容をバランスシートから判断しようにもまったく理解できる情況ではない。
日本の大手銀行は、おおまかに言うと、エクイティ(自己資本)とデット(預金)で資金調達を行い、それを傘下の子会社を通じて、個人や企業への融資、債券・株式・不動産・デリバティブ等への投資で運用する会社になってしまっている。資金調達のうちデット(預金)の部分は国の保証がついていて、資金の出し手は非常に低い利回りに甘んじている。一方で、エクイティ(自己資本)での調達を総調達額の8%以上に保つことがこの投資ゲームのルールなのである。通常はエクイティの部分は保証が無い分だけリターンが大きいはずだが、そのリターンが見えないので保証の代わりとしてデットの利回りの数十〜百倍を約束して調達したのが今回の増資だったのではなかろうか。
調達した資金への配当をある程度固定化することによって、運用会社である銀行は、利益の出やすい体質になっているはずだが、運用サイドの毀損が著しい為、ゲームに参加するためのルールが守れないような状況に落ち込んでしまっているのが現状だ。しかし、そんな投資会社への投資を止められないのが今日の日本ではないだろうか。通常の投資会社の場合は、運用額の上限を設定することにより、ある程度の結果を出すことができる可能性があるが、無制限に投資を受け入れることを余儀なくされる銀行という投資会社はゲームのルールを守るためだけに必死になっている。
銀行の公共性は誰も否定しない。たとえ、それが国営化されても銀行の一部の経営陣以外は誰も異論はないはずだ。銀行が民営であるがために、銀行はルールを守り、その為に貸し渋りだの、時価会計だと言って資産を再評価しないといけないわけだが、国有化してしまえば、郵政公社のようにどんぶり勘定でそんな議論はなくなってしまう。デットもエクイティも関係なく調達したものはすべて国が守るであろう。中途半端にしておくことが銀行経営者がどちらつかずの経営しか出来ない大きな理由であるような気がしてならない。
筆者は、運用内容が不透明な銀行という名の投資会社にお金を預ける方法以外に自分の資産を守り、増やす方法は他にもあるはずと考える。
東京IPO編集長 西堀敬 nishibori@tokyoipo.com |