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本物の企業IRを考えるシリーズ
    〜個人投資家にとっての企業IR〜 その4(全12回)
   株式会社KCR総研 代表取締役 金田洋次郎
   (証券アナリスト・IRコンサルタント)
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先頃、日本IR協議会の10年史が発刊された。設立当時からの会長である歌田勝弘氏(味の素元社長・会長)が10年史の刊行に当たり冒頭で述べているように、日本IR協議会の10年は、第二の敗戦とも称されるバブル崩壊に端を発する日本経済の「失われた10年」とほぼ軌を一にしながらも、当時大半の企業にとって未知の用語であったIRが、今では企業の重要な経営活動になったとしている。このことは、逆に言えばこの10年間、日本経済が多額の不良債権などバブルの処理におわれながら経済成長など定量的な側面に関しては、停滞を余儀なくされたものの、IR活動や企業モラルなどの定性的な側面は、大きく深く静かに醸成されてきたといえるのではないだろうか。

日本企業のIRは、1961年(昭和36年)のソニーがNYで発行したADR(米国)預託証券)に伴うものが最初とされる。我が国と違い、エクィティファイナンスなどに代表される直接金融が発達した米国では、当時から企業がIRを実施するのは半ば当然のこと。郷に入れば郷に従えの精神から海外に積極進出する大手企業の間から、その経験を活かし、日本国内でも徐々に導入され、広がっていったと考えるのが妥当であろう。

私自身がIRの実務及び研究にたずさわる最初の時期は、1992年(平成4年)の4月頃からと、ちょうどIR協議会が発足する1年前ぐらいからである。証券会社におけるバブルの温床ともいえる部署であった事業法人部での経験から、私は企業の透明化やモラルといったものを真剣に考えるようになった。また、企業、証券会社、投資家と証券市場の担い手であるそれぞれの役割を真剣に考えるようになったのもこの頃からである。ちょうどそんな折に、私に法人企画部への異動命令が出る。法人企画部という部署は、事業法人部と引受部、そして全国の支店法人課を調整、統括する部署で法人関係の予算を一手に担うなど、これまた随分権限が大きいところであった。しかし、どうやら補強の意味合いが強い異動だったらしく異動直後の私に引き継ぐメインの仕事はない。

「君にはどういう仕事をしてもうらおうかなぁ」と言う上司を目の前にして、「IRをやらせてください」と私は上司に願い出た。今思えば、この時の一言がなかったら、その後の私の人生も大きく変わっていたかもしれない。こうして、当時の従業員約6000人の証券会社でただ一人のIR専任担当者ができた。IR専任担当者といっても、自社のIRをするわけではない、あくまでも企業側にIRを提案する専門家、いわゆるIRコンサルタントである。私は、自らの名刺に法人企画部IR担当と刷り込み積極的に企業を訪問し、企業IR活動の普及に取り組み出したのである。

とはいうものの、当時の私もIRに関しては、手探り状態での出発であった。まだ、IR協議会も発足していない時期である。今のようにIRと言う言葉が市民権を得ているわけでもなく、その重要性がさほど認識されているわけでもない。企業サイドに対する説明はもちろん、企業IRを普及させるための体制づくりとしての社内における調整にも随分時間がかかったように思う。当時専任のIR担当が居たのは、大手4社のみで準大手証券では無論初めての試みでもあった。

その大手においても、野村を除く日興、山一、大和の3社は、当時、引受部門や事業法事部門に対するフォロー的な色彩が強く、いち早く野村・日興は子会社化を図って体制を整えていったが、当時から明確なコンサルティング・フィービジネスとして位置づけたのは野村ぐらいであった。実際のところ、証券会社のフォローする当時のIR活動そのものは、決算説明会のアレンジや工場見学会、ファイナンス後に実施する企業説明会の調整作業などが大半であり、その内容にまで踏み込む例はほとんど無かったといっていいだろう。

もっとも、私自身も担当1人だけの出発である。説明会のアレンジだけでも一苦労で、なかなかすぐには企業のIR戦略性にまでは踏み込めなかった。IR担当となった当初から、企業説明会のセットなどに明け暮れながらも、こうした表面上の企業IRミーティングは、何かが欠けているのではと考え始めていた。つまり、本物のIRといえるのだろうかと。そうした折、設立2期目の日本IR協議会からパネルディスカッションのパネラーとして参加の声がかかった。当時の題目であるフォーラムのテーマは、「企業の情報開示をどう評価するか−アナリストの視点から」であった。同席したパネラーは、小島正興氏(当時セコム副会長)や松島憲之氏(日興リサーチセンター主任研究員)など。当時先進的なIRを展開していた伊藤忠商事広報部IRチーム長の坂本敏彦氏の司会進行で開催された。

当時、社内においてもたった一人ではじめたIRを既にグループに昇格させていた私は、ここぞとばかりに大いに吼えたのを覚えている。「日本企業のIRは、まだまだ遅れていると」。あれからまる10年。日本企業のIRは、本物へと大きく変わったのだろうか。答えは、イエスでもありノーでもある。その辺の過程や結果を次回以降検証していくことにしよう。

株式会社KCR総研 代表取締役 金田洋次郎
(証券アナリスト・IRコンサルタント)

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