最近メディアによく登場するようになった言葉に「閉塞感」というものがあります。
閉塞とは閉じてふさぐことなので、閉塞感とは出口がふさがれて先へ進みようがない状態を意味するそうです。
その最たるものが、ねじれ国会でしょうか。
衆議院では与党が三分の二を占めるものの、参議院では過半数割れとなっており何事もスピード感を持って進めることができなくなってしまっています。
野党は国民の目線という言葉を良く使いますが、国会議員は間近に迫ってきた衆議院選挙に勝つためのリップサービスばかりで真面目に日本国のことを考えての発言とは思えない内容ばかりです。
そんな国会議員1人に3億円のコストがかかっていると言われている最中に、次回の衆議院選挙で与党と野党の政策の正当性を国民に問いたい・・・なんて発言が堂々とテレビで行われるような、議論の為の議論しかしていない国会議員を見ている国民は正直しらけ切っているのではないでしょうか。
次に証券税制。
2008年末に株式譲渡益課税10%という軽減税率が終わることになっていましたが、それが2009年1月からは年間の譲渡益500万円までは10%、500万円超の部分については20%にするという内容に変更になります。
なぜ500万円で線引きされるのかがまったく理解できません。政府は譲渡益500万円を得るのにいったい幾らの元手でどれだけ売買すれば実現可能と計算しているのでしょうか?
例えば今年のような相場展開となれば年初からほとんどの株式は値を下げています。仮に日経平均株価を買っていたとしても、年初の17,000円から1,000円以上低い水準で年末を迎え年初に買って年末に売却したら譲渡益ではなくて、譲渡損が発生してしまいます。
つまり株式譲渡益に関して言うならば、手持ちの資金の多寡が得られる利益を確定するわけではないのです。お金持ちが有利な運用ができるというのは確定利付きの預金の話であって、株式投資は額が大きければ大きいほどリスクが高くなりひとつ間違えば取り返しができないほどの損失を被ることになります。
なのに譲渡益の額が多い人はお金持ちだと決め付けてしまうその思考はどこから来ているのでしょうか? 一日中パソコンの前に座って毎日カップヌードルを食べながら株式売買を行っている株式トレーダー諸氏もさぞかしがっかりしているに違いありません。
株式投資でそれなりのお金を儲けることは人並みの苦労ではないことをもっとよく理解していただきたいものです。
最後は年金。
納めたはずの年金がどこかに消えてしまっています。
給料明細では天引きされているにもかかわらず事業主が払っていなかった。国民年金を徴収していた公務員がポケットに入れてしまった。結婚で名前が変わったことで旧姓の保険は宙に浮いている。転職で年金番号がうまく引き継がれていない・・・・
どこかに行ってしまった年金の足取りを追っていけばその他にも多々理由はあるにちがいありません。いずれの理由も年金を納めた側の我々には手落ちはないはずである。その手落ちを自らが証明して復活折衝をしなければならないとなると、誰も年金など納める人は日本には居なくなってしまうに違いないでしょう。
このように我々国民の手の届かないところで生活に影響を及ぼす決め事が多くなってくると、何も出来ない自らに憤りを感じてますます閉塞感が高まってくるのではないでしょうか。
働けど、働けど、我がくらし楽にならず、と詠んだのは石川啄木です。時代は明治時代中頃です。 その頃に日本は江戸地代の鎖国体制が終焉し、世界の価値観を徐々に取り入れていく過程にありました。その先端をいく一部の人々と多くの日本国民には大きな乖離と格差があったはずです。たぶんその時代にも今と同じような閉塞感が多くの国民にあったかもしれません。但し、今と違うところは、近代化していく社会はその裾野を広げて行き、国民を目に見える形で豊かにしていったことです。
100年の時を経て日本は第二世界大戦後に1億総中流と言われるくらいに均一化された社会を作り上げたのです。ところがその仕組みを今や維持できなくなってきたことで世の中は大きく変わらなければならなくなってきているのです。変化を好まない農耕民族の日本人は、その均一な社会の仕組みが音を立てて崩れていくことに閉塞感が高まっているのではないでしょうか。
もし変化への対応ができないことに閉塞感の高まりがあるとするならば、他力本願を自力本願に変えれば物事は好転するのではないでしょうか。
年末になり、挨拶回りをしているとこの「閉塞感」という言葉が出てきます。来年こそのは、政治が悪い、世の中の仕組みがなっていない、税制が良くない・・・と言わずに自らが変わることを考えてみてはいかがでしょうか。
私も物事の視点と考え方を少し変えてみたいと思います。