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『大亜精鋼』はかつてスイス・インダストリアル・バンクの得意客の1社だった。年代に、大亜精鋼はスイス・インダストリアル・バンク主幹事でスイスの資本市場で数回にわたり債券を発行した。投資家の大亜精鋼の債券に対する関心は高く、どの債券も発行後、マーケットで瞬間蒸発する程であった。大亜精鋼はボール・ベアリングのメーカーで当時世界シェアの約3割を占めていた。プラザ合意以降、日本経済は急速な円高に見舞われた。多くの製造業者が廉価な労働市場をもとめて海外に生産施設を移転した。『産業の空洞化』はまさに大きな社会問題となっていた。当時、先代の社長、大澤莞爾はアジアとの共存を唱え、積極的に東南アジア地域の地元の資本と提携し、雇用安定の促進に一役かって高い評価を受けていた。特にタイ王国では10億ドルにのぼる工場団地を建設し、大澤は国賓待遇であった。『エコノミスト』や『アジア・ビジネス・ウィーク』等の著名な経済誌は挙って大澤のことを『アジアの雄』と形容し賞賛したのであった。破竹の勢いのアジア経済の波に乗り、大亜精鋼は急速にそのシェアを拡大していった。90年のピークの頃には大亜精鋼の株価は2千円台にのり、時価総額は4千億円を上回っていた。
1990年代に入り、社長の莞爾は病の床につき、息子の源太郎に社長の座を譲ったのである。源太郎は慶応義塾の経済学部を卒業後、大亜精鋼に入社し、その後、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得し、帰国後、暫く大亜精鋼の経営企画部国際課で海外戦略を担当していた。僅か35歳の若さで取締役に就任し、5年前に代表取締役副社長の役職に就いた。源太郎は社長に就任すると欧米流の経営手法を積極的に導入しようと試みたが、長い歴史と伝統をもつ老舗のメーカーの大亜精鋼の社風には馴染まず、業績は下降の一途を辿ったのだった。

1995年1月に慎介はスイス・インダストリアル・バンク東京の投資銀行に移籍した。その時任された担当会社の1つが大亜精鋼であった。大亜精鋼の業績が赤字に転落した頃で、投資銀行の仕事になるような材料は何も無かった。90年代前半に大亜精鋼がスイス市場で発行したスイス・フラン建普通社債とワラント債の残存があり、リード・マネージャーを務めたスイス・インダストリアル・バンクは主支払代理人の責務があった為、慎介は定期的に大亜精鋼の財務部に顔を出していたのだった。慎介が担当になって半年ぐらい経過った頃に大亜精鋼の財務部長、本田千秋から慎介に電話があったのだ。
「スイス・インダストリアル・バンク、朝岡です」
「大亜精鋼の本田です」財務部長の本田は関西出身で、大亜精鋼の大阪支店長を10年務めて、その後転勤で東京の財務・企画部に異動になった。生粋の関西人で東京に来ても関西弁のままであった。
「いつもお世話になっております」
「ああ、堅い挨拶はええで。朝岡はん、ちょっとお伺いしますが、おたくにプライベート・バンクっちゅう部署がありますの?」本田はマイ・ペースで続けた。
「あっ、ええ、ございますが」慎介は答えた。
「うちとこの社長が興味がある言うてはってな、1度、そこの担当の人紹介してや」
「わかりました。では、プライベート・バンクの者と相談しまして、こちらからご案内申し上げます。ご連絡は本田さんの方で宜しいでしょうか」
「ああ、ほな宜しゅう、頼みまっさ」

慎介は大亜精鋼の最新のアナリスト・レポートをスイス・インダストリアル・バンクのウェッブ・ページで検索した。7月に最新のものが出ていた。本文を読み込んでモニター全面に映し出した。スイス・インダストリアル・バンクのアナリストは大亜精鋼の株を『売り』に強く推奨していた。背景は激化する価格競争によりボールベアリングの市況が暫く不透明な展開となる事と大亜精鋼社の多角化による当面のコスト増が挙げられていた。レポートは以上の要素を総合すると大亜精鋼の株が今後上昇するエクイティ・ストーリーの裏付けとなる材料が乏しいと締め括ってあった。慎介はレポートを全ページをプリントした。次に慎介はブルームバーグで他の金融機関のアナリストの評価をチェックした。大亜精鋼社のレポートをカバーしているアナリストはスイス・インダストリアル・バンクを含め全部で10人、そのうち8人が『売り』、2人が『中立』のスコアをつけていた。現在の大亜精鋼の株価は150円で、ピーク時の10分の1以下である。慎介は大澤社長が個人で保有する株式を担保にした融資額増加の話は到底無理な話だと結論づけた。株式の担保価値のバリュエーションを頼むまでも無い事は誰の目にも明らかであった。リサーチから取り寄せた大亜精鋼の『有価証券報告書』に目を通す。借入れの欄を見た。長期借入れは取引き銀行上位3行から合計1800億円で、全てに土地・本社屋・工場が担保として付けられていた。短期は5つの銀行から総額750億円。こちらは無担保であった。慎介は電話で詳細を学に連絡しようと、受話器を外したが、思いとどまると席を立って同じフロアの反対側の一角にあるM&A部を目指した。

M&A部は投資銀行部の中の一部門であるが高度な専門性が要求され、つの独立したプロダクト・ラインとして扱われていた。槙原理一はスイス・インダストリアル・バンク東京のM&A部のヘッドである。バツ一の槙原は四十路を迎えたばかりで、仕事もプライベートもきっちりこなす外資系金融マンの典型のような人だ。兄貴肌の槙原は、慎介がスイス・インダストリアル・バンクに来てから仕事の面でもいろいろとアドバイスをしてくれたのだった。M&A部に入っていくと槙原は書類に目を通していた。
慎介は挨拶した。「こんにちは」
書類から顔をあげると「よお、慎介、景気はどうだい?」と槙原は返えした。
「まあ、可も無く、不可も無くってところですかね」
「それで、可愛い弟君は今日はどのようなご用向きで?」
「実は、うちでカバーしている顧客で『大亜精鋼』と言う会社があるのですが」
「ああ、うちが主幹事でスイスで債券発行を何回もやっているところだろう。俺も88年に大亜精鋼がインドネシアの会社を買収した時にアドバイザーをやった事がある先だからよく知っているよ。でも今は社長が代替わりしてさっぱりじゃなかったけ?」
慎介は肯くと槙原に大亜精鋼について学と話してから今までの経緯を説明した。槙原は一言も発せずに慎介の話を聞いていたが、漸くその口を開いた。
「まあ、今のうちの置かれている状況からすると新規の仕事を大亜精鋼とするのは無理だろうね。来年早々にはリバティー・ワンと合併するだろう。当面はうちのバランス・シートを傷める類の仕事は特別に役員クラスのお墨付きが無い限りは忘れたほうがいいだろうな」
スイス・インダストリアル・バンクとリバティー・ワンの合併のお題目の1つにROEの大幅な改善があった事を慎介は思い出した。
「まあ、いずれにせよ、遅かれ早かれ、リストラは急務の会社だから、ディベスティチャーという事になればうちとのビジネス・チャンスはあるだろうがね。その手取り金がはいる迄のブリッジ・ローン(繋ぎ融資)という事であれば決済は下りるかもしれないけど、余程の理由が無い限り、単独の担保貸しは無理だろう」自分の考えを確認する為に慎介は槙原のところに出向いたのであったが、予想通り答えは明白であった。
慎介は槙原に礼を述べて、投資銀行に戻ると、プライベート・バンクの清水学に連絡を入れた。
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