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エピローグ
2003年8月 東京
その日の朝刊の社会面には2年前におきた大亜精鋼の社債の償還に絡む一大横領詐欺事件のその後が小さく報じられていた。横領された200億円のうち180億円は事件発覚後のスイスの警察当局の徹底した捜査の結果、カリブ海のグランド・ケイマン島のペーパー・カンパニー名義の銀行口座に眠っているのが発見されたが、残りの20億円については行方不明のままであった。捜査当局は繰り返し容疑者の市田昭雄を尋問したが、市田は身の潔白を主張するばかりで、取り調べは平行線を辿っていた。朝岡慎介と清水学は事件発生後、あれこれと捜査を担当する刑事に質問攻めにあったが、2人は槙原が周到に準備した当初からの筋書き通りに振舞った。結局、検察当局は市田の自供がとれないまま、幾つかの物的証拠をたてに市田を起訴に追い詰め、約2年にわたる審理の結果、懲役5年の実刑判決が下されたのであった。事件後、市田と大澤源太郎のインサイダー取引も明るみに出て、大澤は進退問題から大亜精鋼の社長の椅子を追われていった。朝岡慎介は事件後のごたごたに嫌気がさして翌年にはユナイテッド・リバティーを退社して、また別の米系の投資銀行に移籍していた。由右子はそのままユナイテッド・リバティーに残り、1年後には小売部門のアナリストとしてデビューした。市田の子分の本山憲造は、市田の失脚後、エクイティー部長の座を追われ、翌年の1月にはユナイテッド・リバティーを退職していた。第2の子分の番場和彦も翌年にはＭ＆Ａ部門長から一スタッフに格下げになっていた。
その日も朝から暑い夏の日差しがアスファルトだらけの東京の街を照らしつけていた。週末で代官山の街はカップルや若者のグループで賑わっていた。旧山手通りに面したオープン・カフェのテラスにサングラスをかけてビールを飲んでいる槙原の姿を見つけるのにそう時間はかからなかった。槙原は近づいて来る慎介と由右子の姿を見つけると、座った席から手招きした。2人は槙原の両側に座ると、倣ってビールを注文した。
「今朝の新聞見たか？」槙原が開口一番訊いた。
「ええ、これで僕らの計画の最後の幕が降りたってことですかね」慎介は一瞬遠い目をした。
「これでお姉ちゃんも安らかに眠れるんでしょうね。有難うございました」
長身の華奢なウェイターが2人の前にビールを運んできた。
「それじゃ皆で乾杯しようか」槙原がグラスをとると、2人はそれに続いた。3人はグラスを高く掲げると軽快に乾杯した。さんさんと降り注ぐ眩しい太陽の光の下でグラスの中の細かい泡がきらきらと輝いていた。
「学の奴、どうしているんだろうな」槙原がぽつりと言った。
「あいつ、僕らには内緒でうまい事やったんでしょうね。あの1年後にいきなり何も言わずに僕らの前から消えてしまいましたからね」
「でも奴はあの計画に参加することで、プライベート・バンカーとしてのキャリアを棒にふった訳だからな。それにあいつがあの後、例の20億円をどうしたかなんて調べようがないしな。今頃、どこかの南の島でピニャコラーダを啜りながら、葉巻でもふかしているんだろうな」槙原が言った。
「南の島か」そう言えばしばらく休んでいないなと慎介は思った。慎介は槙原の隣にオフ・ホワイトの麻のノー・スリーブ・ワンピースを着て座っている由右子のアーモンドの形をした目が気になっていた。
「私も南の島で休みたいな」由右子はそう口にすると、生きていれば姉が慎介と行ったであろう南の島の事を想像した。由右子は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。《私、お姉ちゃんの分まで生きていくから》 由右子は姉、菜緒子が愛した男の横顔をテーブル越しに何時の間にか見ている自分がそこにいる事に気がついた。 |
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