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第28章
2000年8月東京
7月26日、ドイツ時間の午後3時にベンゲル社はステンレス鋼の部門売却の入札を締め切った。予定通り手をあげていた4社が入札した。結果は槙原の筋書き通り大亜精鋼が270億円で落札した。他の3社の入札価格は130億から170億円で、大亜精鋼の提示した入札価格は突出していた。もちろん大澤源太郎も市田昭雄もその事実を知る術は無かった。ベンゲル社のアドバイザーについたナショナル・ドイツ・バンクは多額の成功報酬を手中に収める事が出来、槙原はこの結果に大いに満足していた。市田は自分の書いた筋書き通りに、捕まえて下さいと言わんばかりの勢いで罠に向かって突っ走っていた。市田は買収案件の成功を早速電話で大澤源太郎に電話で伝えた。資金繰りについては今回の買収により獲得した資産を担保にして約100億円の融資を古くから親しくしている生命保険会社2社と国内の主力工場のある地方の銀行3行から取りつけることで何とか落ち着いた。市田はアナリストの鈴木太郎に今回の買収を高く評価して『買い推奨』のレポートを速報ベースで出すように命令した。鈴木は初め『買い推奨』にする事に難色を示したが、市田の逆鱗にふれ解雇される事を恐れて、不承不承命令に従った。その後、株式市場全体の地合も潮目が変わり、年前半加熱気味であったテクノロジー関連の株式から従来のオールド・エコノミーの株式に資金が還流し始めた。そんな時流と鈴木太郎の出したアナリスト・レポートが相俟ってか、大亜精鋼の株は8月初旬から約3割戻して、8月の中旬頃には600円台まで回復していた。
お盆の週は例年の如く東京の街はいつもの混雑ぶりから解放されて一時の休息を楽しんでいる様であった。飯野由右子は上司のシニア・アナリストで小売業界を担当している日系ブラジル2世のマイケル大江と8月決算の会社の決算前の業績予測の数字の調査をする為に朝から会社訪問に出ていた。最後の午後3時のミーティングは予定時間をオーバーして、2人して会社から出てきた時には午後5時30分になろうとしていた。由右子は時計を気にしながら、マイケルと肩を並べ歩道を歩いていた。マイケルは由右子が時間を気にして心ここにあらずといった様子でいるのに気付くと、冷やかすように言った。
「由右子、今夜はデートですか？」
「マイケル、そんなんじゃないんです。ちょっと人と会う約束をしていて･･･」
「それは大変だ。遅れないようにしないと。今日は何も特別にはないからこのまま直帰していいですよ」マイケルは由右子を見て思わせ振りなウインクをした。
「有り難う、それじゃお言葉に甘えさせてもらいます」由右子はマイケルに別れを告げるとＪＲ品川駅前でタクシーを拾った。タクシーに乗りこむとカー・エアコンから噴出す冷気が心地良かった。
「大手町の交差点までお願します」由右子は行き先を告げると腕時計を見た。午後5時40分だった。待ち合わせの時間は午後5時30分で、大遅刻だった。由右子は遅れる旨を連絡しようと携帯電話で相手の番号をダイヤルしたが、電波が届かないか、電源が切れているため不通であるメッセージが繰り返されるばかりであった。オフィスにも連絡をいれてみたが同様にヴォイス・メールのメッセージが流れた。タクシーは午後5時55分に大手町に到着した。由右子は交差点の一角にそびえ建つ真新しいビルの広いホールの総合案内版でナショナル・ドイツ・バンクの総合受付が26階にあるのを確認して、エレベーターに飛び乗った。26階に着いた時には、時計はまもなく午後6時になろうとしていた。総合受付の女性と思しきスタッフが正面玄関のガラスの扉に施錠をしようとしていた。
「すみません」由右子は息をきらせながら声をかけた。受付の女性が驚いた様子で由右子を見ると眉間に皺を寄せて言った。
「本日の業務は終了しましたが,どちらへ起こしですか」
「こちらのＭ＆Ａ部門の槙原さんと午後5時30分にお約束を頂戴していたのですが、遅れてしまって･･･」
「あの、失礼ですが」
「ユナイテッド・リバティーの飯野と申します」
女は由右子を中に通すとガラスの扉を内側から施錠し、受付のカウンターに戻ってミーティングルームの予約表を見て、ロンドン・ルームが槙原の名前でブックされているのを確認した。女は再び由右子に向き直った
「どうぞこちらへ」女は由右子を右奥の部屋に案内した。ドアをノックして由右子の来訪を告げた。 |
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